巨樹たち 福井県勝山市「西光寺の大杉」 / 0件のコメント 直進性大裏杉は、お大師様の箸 福井県巨樹探訪旅も5か所目(といっても予期せぬ出会いもありましたが)。 大野市の山中から勝山市へと戻ってきて、道路の平坦さに少しホッとしました。 雨は強くなる一方ですが、探訪に中断はありません。 そのダイナミックな姿が印象的な「西光寺の大杉」には、強い雨の印象が刷り込まれました。 「西光寺」という地名ですが、目的地はお寺ではなくて白山神社です。 どころか、地名にその文字を遺しているだけで、お寺は現存しないらしい。 さすが白山本体が近いこともあって、大野市・勝山市にはずいぶんたくさんの白山神社が存在しています。 ほとんど一里塚のごとくあり、「どれ」が「それ」なのか……正確にピンしていないと迷う羽目になります。 そう、我々みたいに。 ワタクシの事前リサーチがかなり甘々だったため(現在よりもIT化が遅れていた。個人的に)、じゃあじゃあ降る雨の中捜索して回る羽目になり、同行のRYO-JIさんには平謝りです。 到着した頃には16時を回って、境内はかなり薄暗かった。 そればかりか、奥の方にひときわ淀んだ影のような巨大な気配……。 できるだけ見ぬ振りして、踏み込みました。 簡素な社殿の裏手に回ると、見間違いようもない「西光寺の大杉」の登場です。 おおー! と声が漏れる堂々とした姿に、先ほど感じたおどろおどろしい感じはさっぱり霧散しました。 本当に不思議なくらい。 薄暗さはもちろんこの巨樹の樹冠のせいもありますが、生命力を感じると評価が逆転してしまう。 見ての通り、雪深い地域に育つ裏杉です。 しかし、雪の重みでたわんだ曲線的な感じはなく、分岐しつつも直進して育っているのが特徴的。 束になっている幹はかなりのボリューム感。 一番下の枝は傾斜地の重力によるのか、ほとんど地表に沿うように低空を進んでいます。 一体何又に分岐しているのか? はっきり言って数えられない。 見る方向によって全然違った姿を見せてくれ、どこから見ても迫力十分で見飽きない。 幾多の幹や枝が、俺だ! 俺が本体だ! と主張しているかのようで、撮る方も困ってしまう。 多分、合体杉だろうと推測します。 間違いなく大きく育つようにと苗木を束にして植え、あるいは植え足すなどして……それが数百年かかってこんな姿になったのでしょう。 この緊密な根幹の迫力に気おされると、この際、合体/単幹はどっちでもよくなってしまいますが。 樹冠を見るにはちょっと引かなければいけない。 密度は濃く、広範囲に覆いかぶさってくるので、この日の土砂降りでも傘要らず。 大杉の下の地表は乾いています。 説明文。 「白山神社のカツラ」に続き、十八番のお箸ぶっ刺し伝説。いただきました! 白山神社の泰澄サン……お箸何セット持ってるんだ? と思いきや、なんと空海サンではありませんか。 なぜ唐突に弘法大師なのか? どのような由縁でここに立ち寄り、一体、何弁当を食べたのか? (まさかソースカツ弁当ではあるまいが……) 周囲を探しても、手がかりは何もありませんでした。※1 豪雨の中、大杉の傘下、解説文末の願いには賛同。 自然は豊かですが、厳しくもあります。 この先も元気一杯に枝を広げていってほしいものですね。 杉の下の農道を散策すると、先の山に「西光寺城跡」という看板が立てられているのを発見。 「寺が現存しない」どころか、「西光寺城」という戦国の城に名を継いだうえ、その城もすでに無い。 城址といえど、凸凹しか残っていないようですが……それはまた、この分野のマニアの方にお任せしましょう。※2 「けれど、巨樹は今もある。 あるどころか、ますます勢い盛ん。」 ……これこそ歴史のコントラスト。 「西光寺の大杉」 福井県勝山市鹿谷町西光寺 白山神社 推定樹齢:500年 樹種:スギ 樹高:35メートル 幹周:9メートル 市指定天然記念物 探訪:2018.5 探訪メモ: 今一度、白山神社違いをしないよう。Googlemapを載せておきますので、「この白山神社」であることチェックの上、御探訪ください。 逆手にとって「白山神社めぐり」をしてみるのもいいのかも? 「2018年・福井~兵庫巨樹探訪旅」もぜひご覧ください。 ※1 この件について、我々しばし話し合ったのですが……あくまで素人の妄想を。 ひょっとしたら、数ある白山神社同士、あるいは巨樹有する他の神社仏閣、自治体などと張り合ううち、話がどんどんデカくなってしまったのでは……?「うちがいちばんだ! なんたってウチは弘法大師サンのお箸だからな!」 とか……。 ふざけすぎ? うーむ、でも、あながち無い話でもないと思うのです。 現代でも、皆がSNSでやってるのって、要するにそういうコトじゃないですか。 我々とすれば、何にせよ面白い。 空海サンが刺すとこうなっちまうんだ! と、伝奇の風を浴びましょう。 ※2「西光寺城の築城年代については、詳しいことは不明となっていますが、戦国期には、保田の国人である田所氏の領地だったと思われます。 戦国末期には、朝倉氏より保田の地を与えられた、島田将監の領地となり、一向宗徒と共に、近くの三室山城、村岡山城、壇ヶ城とともに平泉寺との戦いの拠点となりました。 」 城跡マニアの方々、すぐ近くにこんな面白い巨樹があるというのに、こちらはお訪ねにならないようで。 土の凸凹には興味を示すのに? 良くわからない趣味もあったもんです。(……500%偏見です。大きい樹を見るために夜通し750キロ走って来る人に言われたくないに違いない。) 関連